一関市病院事業の取り組み
一関市病院事業は、一関市国民健康保険藤沢病院(44床)を主要事業とする公営企業です。始まりは1993年に旧藤沢町が設置した国民健康保険藤沢町民病院で、2011年一関市に編入合併され事業継承されています。
旧藤沢町の取り組み
藤沢町では、高度経済成長期における若年労働力の流出による人口の減少が顕著となり、1955年の合併当時に16,000人であったものが15年後には12,000人まで減少、人口の減少は、地域への誇りと希望をも失う「心の過疎」を生むことに危機を感じた藤沢町は、「自分たちの町は、自分たちでつくる」という住民自治を掲げて様々な取り組みを 行うこととなります。特には自治会組織の結成、藤沢型農業、企業誘致、幼保一体化、国際交流、そして医療過疎からの脱却として「健康と福祉の里づくり」の政策が展開され ました。
藤沢町の医療は、1951年から1968年までの17年間、岩手県立藤沢病院が担っていましたが、医師の確保が困難になり、県立千厩病院附属藤沢診療所に移行、1980に完全に廃止されました。藤沢町は、無床の国保診療所を3ヵ所運営していましたが、“やがて訪れる”高齢社会に対応すべく、先行して設置していた保健センターに隣接する形で19床の国保藤沢診療所に特別養護老人ホームを併設して1982年に福祉医療センターを設置しました。
この福祉医療センターは、「価値ある長寿社会藤沢の実現」を目指して、それぞれのニーズに合わせて切れ目のない総合的なサービスを提供するために保健・医療・福祉に関わる各部門がお互いに連携した取り組みの構想を組織化したものです。しかし、診療所を核にした福祉医療センターでは、医師の確保が難しく、依然として安定した医療の提供ができませんでした。この頃に亡くなる町民の7割は、町外であるという現実から「最期まで暮らせる町でなければ、本当の古里とは言えない」と町立病院の建設に向けた取り組みを開始することになりました。
病院建設は困難を極め、最初のハードルは、県の開設許可を得ることでした。これからの高齢社会を支えるための中核になるものであるということを訴え、町民総意の願いとして行政と議会が一緒になって取り組まれました。次のハードルは、医師の確保です。「地域に密着して福祉と連携した医療を担う」とうい理念を理解してくれる医師が見つかりませんでした。民間病院や大学病院と組織的に協力関係を築こうとしましたが「発想は良いが現実は難しい」との反応で進展しない状況が続きました。1991年の秋に自治医科大学を訪ねてからは、大学の建学の精神に一致すると理解をいただ くことが出来 たことで、医師の確保に結びつき、1993年7月20日に国民健康保険藤沢町民病院が開設されました。無謀な取り組みともいわれましたが、30年以上にわたって地域包括医療・ケアの取り組みを実践しています。